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このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、
練吉はさつきから一人で喋つていた。
「さやうさ。当今では大分世智辛せちがらくなりましてな。薬価の代りに畑の物を貰つてすませる位のことはさう珍しくはありませんよ」
「先代がぽつくり死にましてね。おかげでこんな所へ引つこむやうになつてしまつたんですが」
「はあ、なるほど」
「なにぶん山の中でございますから、折々にこんなことがございます。」
来客の間にほつと寛くつろいだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
その時、道平がのつこりと診察室に上つて来た。やはり尻はしよりの下から真黒い両脚を円出まるだしにしたまゝで。房一が考へこんでいるのを見ると邪魔をしてはいけないとでも思つたらしく、そのまゝゆつくり診察室の中を見まはして、何か口のあたりをもぐもぐさせた。それから、医療器具棚に近づくと、そのうるんだはつきりした眼で熱心に中をのぞきこんだ。そして又、口のあたりをもぐもぐさせた。それはこんな風に云つているやうであつた。
房一はどこか鹿爪らしい恭順な面持で、控目にじつくり身体を押へるやうにして上るとうしろ向きになつた猫背の老医師の肩がひよいひよいとまるで爪さきで歩いているやうに彼を奥の方へ導いて行つた。
しかし、さういふ身体の忙しさより何よりこたへたものは、房一にとつては肉親の大病を診察するといふはじめての経験だつた。
と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。